人間死ぬのに、なんで生きるの?

こんにちは。
Personal Universe時代を切り開いていく清水です。

ちょっと今回は身の上話を。
24年前の今日、阪神淡路大震災がありました。

当時5才ながら「死ぬ」と感じました。

揺れる床。
茶碗やコップが割れる音が鳴り響く。
飛び散るガラスの破片。


覚えている記憶は
怖くて横で寝ていた母の布団に潜り込んだこと。
部屋の中がガラスだらけだから、父が靴を持ってきてくれて部屋の中を靴で歩いたこと。
揺れがおさまった後、家の近くの公園で毛布に包まりながら、
近所のおばあちゃんと「寒いね」と言って日が高くなるのを待ったこと。


祖父母は、当時 木造建築だった家で下敷きになり、亡くなった。

祖母の遺体はとても綺麗で今にも動き出しそうだった。
祖父は遺体が破損が酷くて当時、幼かった私は面会できず。

その後、母と一緒に全壊した祖父母の家に行き、遺品を拾い集めた。

割れた茶碗
砂まみれの本
動かない時計
汚れた衣服

今でも拾ってきた本から24年の時を超え、砂が舞い落ちる。

両親は喧嘩が増えた。
後から聞いたけど遺産の相続で親戚と揉めていたのもあったみたいだ。


昨日まで平穏だった日常が
元気だった祖父母が
消え去った瞬間。

今この時をどう生きるのかを考えはじめた。
なんで私は生きているのだろうか?

いつか死ぬのに、なんで人間は生きるの?

その問いの答えと出会うための人生が始まったのが
私の幼少期。

今日はこの辺で。
本日も読んでくださり、ありがとうございます。

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